【史料から発見】 「島津斉彬直書」( 8 月 28 日付、弘化四年)(大日本維新史料 第一編ノ七 収載)より抜粋 登城之節、星野久庵 内々申聞かせ候は、此間御庭番帰候由、琉球も唐国へ去年参り候使者帰り、唐国にて相談に相成、十万両程之品、御国より被遣候て、残り居候異人列帰候様に相談も相済候や之旨、御庭番申井候由、内々しらせ候もの御座候 「御庭番によって、琉球経由での外国との密談が突き止められたらしいと、(表坊主の)星野久庵より知らされた」という趣旨である。 このことに対して、大意は間違いなく「 誠に恐ろしく御座候 」と、述べている。 幕府の御庭番が隠密として、時に江戸市中や、江戸から離れた地を探索していたことは、よく知られている。 その業務にもかかわらず、御庭番は武鑑に載るなど、存在自体は公知の事だった。しかしその隠密として仕事も知られたことだったのか? 実は明治以降に知られるようになった話なのではないか? はっきりした証拠が欲しくて探したものである。 「御庭番=隠密」という知識は、江戸時代のうちから、少なくとも幕府役人や、幕府の目を気にする人たちには知られていたことが分かった。 当然、各藩藩士のうち機密や警察業務に関わる者へは業務上の留意点として知らされていただろうし、おそらくさらにその周辺には漏れ出ていたのあろう。 光と闇の両立、よく出来たものだなあ。